再考させられるコミュニケーション

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さて、これは前々から考えていた事ではあったんだけれども・・・・ 今回の父の通夜で絶対にやろうと決めたのだ。 私は、社会人競馬サー...
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さて、先日

初のビンタ麻雀をやってきた。

着順と点数が重要で失点が大きいと首を切られた状態を巻き返すことが難しいため、1度では分からなかったが、通常の麻雀とはちょっと違う考え方が必要だろうなと思わされた。

そんな中、個人的には大きなミスもなく、期待値が高いところだけ勝負していたのだが、結構始終厳しい流れで、感覚的には絶対に勝てるという入り方とマチになっても掴んで振り込んだり、捌かれたりしていた。

なんか膨大な量の消費したツキに阻まれているような感覚。

なのでぼろ負け気味だったんだが、ラストゲームの東1局に親のリーチに押して、押して国士無双をツモ上がり、どうにか格好はつけることができた。

赤来ないし、ドラこないし、面前で張れないしとなかなか三重苦みたいになっていたけれども。

麻雀はツモるゲームなんだけれども、噛み合わないと最後のピースが必ず入ってこない。

まあ、その後飲み会に行った。

その際に友人のポンコツカリスマ営業がいるのだが、コロナの2年間の間にあまり人と飲まなくなったと言っていたが、何があったんだと思うほど会うたびにコミュニケーションの劣化が酷いなと感じさせられた。

私と二人の時だけだからかと思っていた。

だから、他の人がいたらもう少し気を遣えるかと思ったのだが、まるで私といる時と同じで、その話は仲間内でするものではなく、客のいない場末のスナックとかでママ一人しかいない時に、ママ飲みなよと飲み物出しながらすべき話だよと思ったのだ。

逆に言えば、お金払って話させてもらわなければいけない内容。

仲間内に、本来ならお金払わなきゃならないような内容の無償のサービス提供を求めちゃならないよなと思ったのだ。

元来、人間はアウトプットが好きで、話をしたいという生き物であることは否定できない。

けれども、自分がそうだという事は目の前にいる相手もそうなのだよな。

だとしたら、コミュニケーションはキャッチボールと言われているように互いに投げて相手のアウトプットを出しながら譲り合うとまではいわないが、目の前の相手を楽しませることによって自分も楽しむという部分があると思うのだ。

店の客でもそうだけれども、とにかく自分の話をしたい人ってのは、その話は有償レベルのストレスの押し付けを他人にしている事に気づいていないんじゃないかと思うのだ。

まず、その場にいる相手に関係ない話をするなと思うしな。

相手が興味があるとか、関係ある話ならいいけれども、全く関係のない話をされたって時間を搾取されているだけで苦痛でしかない。

パワハラとかモラハラと言われているのと同じでコミュニケーションハラスメントのコミハラだなと思うものな。

人は自分に関係ない話を聞かされるのが最も苦痛と言われている。

そして私もそれは事実だと思うのだ。

けれども、それを話してしまう人は前提中の前提に気づいていない。

人は自分が思っている以上に、自分に対して関心はなく、むしろ無関心だという事。

私もそうだったけれども、学生を卒業するくらいまでは親だの教師だの友達だのが自分を気にかけてくれたりするので、人が自分に興味がある物という誤解を刷り込まれる。

だから、相手が勝手に自分に興味があるだろうと誤解して、自分の話をしてしまいがちだ。

けれども社会に出たら基本的に目の前の相手は自分にまったく興味はない。

てことは、自分の話はむしろタブーでしてはいけない事なのだ。

勿論、聞かれたら答える分には構わないが、相手に関係ない自分の話をしたってコミハラ野郎と思われるだけで誰も得しない。

話している本人はその時、すっきりするのかもしれないが、その代償は高く、全員に苦痛を振りまく相手を次呼んで飲もうとはならなくなる。

つまりつながった縁が切れる要因になるのだ。

だからこそ、コミュニケーションはその場にいる人じゃないと意味のないというか成り立たない会話が必要となるんだよな。

共有した場、共有している過去の記憶、他者主導による現状の共有、知らなかった生きていくうえで関係のある情報など。

特にやってはいけないと思うのが、誰も知らない人の話をして自分の感想を言う事だ。

物凄くつまらない。

その場にいるその人以外全員関係ない奴の話なのだ。

地獄の有様となる。

その友人と二人で飲むときによく言うのだけれども、私の知らない会社の人の話は私ではなく同じ会社の人に言えと。

私はまるで知らないし興味もない。

だとしたら、その飲みでする会話の相手は私である必要ないよね?と。

嫁でもいいわけだし。

私じゃなくていい会話を私の時間を拘束して行うって、それって映画泥棒、ギガ泥棒と同類の奴じゃない?と思えてしまうのだよな。

だったら聞いてくれる飲み屋にサービスに対する相応の対価を支払ってそれをやる分には分かるのだ。

でも、おそらく飲み屋のママも割に合わないと聞く耳を持たなくなると思うのだ。

シャンパンでも入れれば話は別かもしれないが。

でもそういう事なのだよな。

コミュ障を極めていた私が言うのも変かもしれないが、共通の話題を提供しろとかコミュニケーション系の書籍に書いてあるかもしれないが、そもそも共通の話題が分からないとか情報量が不足していて会話が継続できないなんてこともあるかもしれない。

ニュースを見たり、好奇心をもったり、インプットがないとネタの引き出しが不足するため確かに会話を続けることが難しい。

それも含めて、美味い物を食べるとか、漫画を読むとか、ニュースを見るとか、映画を見るとか、何かをしていかないとより世界が縮小していく。

仮に自分に何のネタがなかったとしても、共通の話題を出すとしたら目の前の相手の話だ。

これは鉄板で、自分に興味がない人は存在しないので、目の前の相手の話をする事。

何もないならこれだけでいい。

自分の話はどうでも良くて相手がどうかの話は、相手にとって興味のある共通の話題とまずブレナイ。

だから、身に着けている物、近況、思考、行動

何もないなら全部相手のそういった話をして、自分の知っている分野と噛み合う部分を掘り下げればいいし、聞くときも質問攻めだと尋問しているようになるので、勝手に相手がこう考えているんじゃないかという解釈で真意を促してもいい。

まあ酔っぱらっているとそこまで思考が回らないことは多いが、特に飲み屋の女の子なんか聞きたくもない話を聞かされるパターンが多いので、なるべく相手の話を振ってあげると楽しんでくれやすくなる。

コミハラは視点が自分しかない人に多い気がするんだよな。

まずは自分のという視点を捨てて、相手はどう見えるか、相手がどうかという視点軸をずらすべきなんじゃないかと思うのだ。

自分の正解もきっと相手にとっては正解じゃないし、自分の当然もきっと相手にとっては当然じゃない。

ちょっと前にLINEの記事で書いたネタだけれども引用しようかと思う。

食べたいと思っていたランチで刺身定食が出てきた時の事だった。

そして出てきた刺身定食

記憶と寸分変わらぬ彩のある刺身の光沢は食欲をそそる。

さあて、何から行こうか。

まずは何も迷わずに赤出汁に七味を振りかけて・・・

ここまで思ったときに、急に七味の瓶を握る私の手が止まった。

何も考えずに振りかけるか・・・

ちょっと前に考えさせられた話が脳内にフラッシュバックする

その娘がそこそこ好意を持っていた男性と食事に行ったときの話だそうだ。

鳥の唐揚げがおいしそうと思ったその娘が注文した唐揚げがテーブルに来ると、一緒にいた男性が何も言わずに唐揚げにレモンを絞ってかけたそうなのだ。

それを見た瞬間に、その娘はその男性はないなと結論づけたという話。

最初に聞いたときはずいぶんと厳しい話だなと思ったのだ。

たかだか唐揚げのレモンくらいでと。

そのまま、スルッとその話が脳内ですり抜けようとした時に、待てよと私の思考が制止した。

いや、ちょっと待て。

何故、鳥の唐揚げに勝手にレモンをかけることにそれほどその娘は重要視したのだろう。

必ず理由は存在するはずだ。

私自身は唐揚げにレモンがかかっていようがいまいが、どちらでも美味しく食べれるのでいいんだけど、それは今までの私の生きてきた経験による自分の中の当然だからどちらでもいいのであって、目の前にいる相手の当然は違うかもしれないんだよな。

仮にだけれども、自分はそうじゃなかったとしても、相手がもしレモンアレルギーだったらどうだろうか?

折角食べたいと思って注文した相手はその時点で唐揚げを口にすることはできない。

レモンを勝手に絞るという行為はその可能性を考慮せず、自分が大丈夫だから相手も大丈夫だろうという自分の常識の押し付けを無意識にしているってことだよな。

そう考えると、その時点でその行為そのものがテーブルの上の唐揚げの範囲じゃなくなってくる。

もっと俯瞰した視点で見ると、見え方が大きく変わる。

一事が万事という言葉と同じで、他のシチュエーションでも同じことが起こりうる人の可能性が高く見えるのではないかと思えたのだ。

自分が大丈夫だから相手も大丈夫と無意識に思っているという事は、結構重要な事やシリアスな場面においてもその男性が当然こうでしょと思ったら、目の前の相手もそうだろうと勝手に決めてしまうため、相談もなく本当に重要なことすら勝手にやっちゃう可能性があるのだ。

なんでそんな大事な事相談してくんないの?て自分が思うようなことでも、相手が些末な事とか当然の事と判断したら、何も言わずにそれをやってしまう。

そこには相手にとってはどうかという視点が欠落しているため、もし一緒にいる時間が長くなればなるほどやり場のないストレスを抱える事が増えてくるってことだよな。

そう考えると、理解できる。

本質的に視点が自分主体しかないと伝えるような行為になってしまっているわけだ。

なるほどな、男性同士であれば生活を共にすることを考慮する必要はないので、本当に一時の共有だからそんなのどうでもいいで終わらせられるけれども、共有する時間が長時間という視点で見ればその一事が結構深刻な要素であるわけだ。

そう気づいたときに、三国志の公孫瓚の話を思い出した。

公孫瓚が袁紹軍と戦っているとき、公孫瓚の配下の武将で敵軍に包囲された者が居た。

その時、公孫瓚はこう言って救援軍を送らなかった。

「1人を救援すれば、後の大将達が救援を当てにして全力で戦わない様になってしまう。今、救援しない(見殺しにする)ことで後の大将達は肝に銘じ自ら励む様になる筈だ」

「また少数を助けるために援軍が犠牲者がでては算盤が合わぬ」

従っている家臣がどうかを考えず、自分の中の都合の良い発想で行動した公孫瓚はその直後袁紹に滅ぼされる。

そりゃそうだよな

家臣から見れば、危機が迫っているときに助けてくれない大将のために命がけで戦う武将などいない。

だから家臣たちは袁紹軍が来た時に戦おうとせずに我先に逃げ出したという。

相手がどうかという視点を欠落した行動は、身を亡ぼす

逆に言えば、国士無双と言われた韓信の用兵の話を思い出す。

ある時、老婆が大泣きしていた。

不思議に思った通行人が老婆に理由を問うと、こう答えた。

戦で足に怪我して膿が溜まっていた一兵卒の息子の膿を大将軍である韓信が口で吸いだして治療してくれたのだという。

通行人が、あの大将軍韓信にそうしてもらう事は名誉な事じゃないかと言うと、老婆はさらに泣き出した。

あの息子の兄も韓信に同じことをしてもらい、一兵卒の自分に大将軍がこんなことをしてくれるなんてと感動し、韓信のために死に物狂いになって戦って戦死した。

弟もきっとそうなって、息子を二人失うだろうと。

公孫瓚と対極の話だなと思うのだ。

会話も同じで、自分の視点だけではなく、相手がどうかという視点でしないと現代版の公孫瓚になってしまう。

相手に何が興味があるか。

ビジネスも同じだけれども、自分のビジネス上の都合の話をする人が上手くいくわけがない。

相手のビジネスが上手くいくための話をしなきゃならない。

営業も同じだよね。

自分が売りたい話をして売れる営業なんかいない。

相手が買うとメリットがある話をしないと。

そんなことを先日思わされた。

コメント

  1. 匿名 より:

    分かる