刷り込まれた常識というか、考え方の教育が日本ってよくないのではないかと思えてきた。
朱に染まれば赤くなると言われている通り、環境が人間を育てる部分は大きく、幼少の頃の教育は軸として定まってしまい、一緒にいた人物の考え方を常識的だと考えるようになる。
最近は聞かないが情操教育の重要性を再認識させられた。
良い悪いは別として、コロナ禍の時のように、女性はリスクを過分に恐れるような傾向を感じるため、不安が多くそもそも幸福になりにくい思考形態をしているんじゃないかと思えてきた事があった。
だからこそ、差別とかでは決してないが、幼少期に母親の方に育てられる機会が多いと、不安かどうかを先に考える思考形態になってしまい、自身を過小評価するというか不幸になることを恐れて、より不幸になる考え方をしてしまうんじゃないかなと思ったのだ。
そして余程の事がない限り、刷り込まれた人格の軸にある常識は疑えないから考え方を変える事が難しくなっていく。
LINEの方でもネタにしたのだけれども、私が生まれて初めて行ったBARが関内にあった。
1971年にオープンしたその店はほんの4年前くらいまでは営業していたのだが、スタッフの入れ替わりやなにやらで客足が遠のいたのか閉店してしまった。
それでも26歳くらいの時に初めて行って通うようになったBARだったので、足しげく通っていたのだけれども。
そこで入れ替わりで入ってきたスタッフがいた。
まだ20代でガタイも大きく、物凄いタトゥが入っていたけれども。
2011年の時にお気に入りのバーテンダーが辞めているので、多分そのスタッフと知り合ったのは2014年くらいだろうな。
頻繁にそのバーで飲んでいたので仲良くもなった。
そのお店が閉店してからは滅多に合う事はなかったけれども顔を合わせれば声をかけるくらいの仲だった。
それが丁度7月6日の水曜日の夜に同じ関内のBARで働いていた同僚が野毛で独立してBARをしており、そこに行った時だった。
いきなりそいつからLINEが届いた
ほぼ初のLINEのやり取りでお久しぶりです、お元気ですかと。
テキーラバーで働いている事は知っていたが、流石にテキーラをガンガン飲むような飲み方はしていないので顔を見せに行くような事はしていなかったんだけれども、一度くらい顔出すかなと思った。
そしてLINEの返信を返したが、既読にもならないし返信も来ない。
相変わらず無礼で勝手だけれども彼らしいと思えていた。
その翌日にタイムラインで「バイバイ」とか上げており、「かまってちゃん」ぶりが酷いなと思ったのだ。
7月13日の事だった。
酒を発注したので片づけに行った後、何回かだけ行ったことある店の最寄りの駅の角のBARに寄った。
ふと時計を見れば21時を過ぎており、井岡一翔の試合を見そびれたなんて頭を抱えていたのだけれども。
そのお店のオーナーバーテンダーさんもお互いほぼ面識はなかったけど、ハーパーの12年がもう飲めなくなるような話をして、そうかハーパー12年美味いものな、今度買っておこうかななんて思っていた。
私も礼儀としてそのオーナーバーテンダーにどうぞ一杯と言うとテキーラばかりを飲むのだ。
2杯目勧めてもテキーラだったので、そういえば17年前に生まれて初めて行った関内のBARにいた人がテキーラばかり飲まされるテキーラバーで今、バーテンダーやってるみたいなんですよねと店名を告げた。
すると、その前日の12日にそこのテキーラバーのオーナーさんが飲みに来たというのだ。
へえ、そこで働いている〇〇さん元気なんですかねと何気なく聞いたところ。
実はその方が亡くなったという話を、その方が働いていたテキーラバーのオーナーさんがしに来たんですよと言われて、言葉を失った。
えっ?先週LINE急に送ってきた奴が?
偶然とはいえ、そんなところでそんな訃報聞きたくなかった。
しかも、俺の返信無視しやがって、何がばいばいだよと急に腹が立ってきた。
きっかけ与えといて、思い出させておいて、しかも俺には結果が変わる可能性のノーチャンスかよと。
当事者からしたら最期だから甘えさせてのLINEなのかもしれないが、残された側からすりゃ一瞬でも違う結果になった可能性があったかもしれないという後悔のメンタルタトゥーを刻まれるだけだ。
ワンチャンすら与えられていない。
関内のBARにその方が勤めていた時に、その方のバースデーでその親御さんが飲みに来ていて、たまたま隣で飲んだことがある。
その親御さんの顔を思い出した。
どんだけ親不孝すんだよと。
自分の視点だけで自分が何かから逃れたかったのかもしれないが、残ったその親御さんがこれからどう受け止めて生きていくのかを考えないのかよと。
親とか知り合いに突然物凄い傷跡を残して、後は知らないは勝手すぎるよな。
まだ30代半ばで何でもやれる年齢で。
病気やケガもハンデもあるわけでもなく。
故人を責めるわけにもいかず、一方的に通り魔に殴られたような理不尽さを拭えない。
ただ、結局そういった逃げてしまう選択をしたのは「幸福」ではなかったからだと思うのだ。
人は幸を感じていれば、その選択肢はしない。
問題は何故幸福じゃなかったかだ。
多分だけれども、幸か不幸はその時の状態ではなく、心の持ちようだ。
あれだけ生まれながらにして豪運の持ち主の神田沙也加氏ですら幸福ではなかったのだ。
成りあがった上島竜平氏も。
幸か不幸かは自分がどう考えるか、どう捉えるかで決まる。
でもそんな当たり前の事すらこの日本では教えてくれない。
いや、そんな当たり前のことを知らない人がそもそも多すぎる。
過去にも記載したが一緒に時間を共有する人の影響を受けやすく、私はステルスエデュケーションと呼んでいるがその教育が良くないのだよな。
常識とか当然が、幸福に生きるという視点からは明らかに間違っている事を教えられている。
すべては自分が幸福だと決めるかどうかだけなんだけれども、何かが足りないとそうじゃないとか、不幸になろう、なろうとする考え方をするように強制的な教育を親や周囲から受けている。
私のお店でも、お客さんに言われる。
マスターには幸せになって欲しい。
大変有り難いお言葉ではあるのだけれども・・・
いやいや、ちょっと待て
そもそも、何故最初から私が幸せじゃないって決めつけるんだと。
自分の勝手な尺度で私を幸福じゃない人にすんなよと。
私にはラッキーしか起きていないし、日々十分面白おかしく楽しくて幸せと言い切れる。
もちろんもっと上の幸福な世界も存在してはいるだろう。
けれども、たとえ何があっても、ラッキーで幸福だと覚悟を持って決めているのに、自分たちが刷り込まれた幸福像の狭い枠組みに無理やり押し込もうとしないでくれ。
より幸せになって欲しいならまだ分かる。
けれども、幸せになって欲しいって今の私が不幸でなければいけないみたいな決めつけだ。
それこそ、先日記載した唐揚げレモンの話だ。
自分が当然と思う事、正しいと思ったら相手がどう思うかなんて関係ないってやつ。
視点を変えれば、幸せマウンティングだよな。
自分は自分が思う幸せな形を作ったのだから、そうじゃない相手は自分よりも不幸なんだよと。
そう相手を否定しなければ自分の幸福を認める事ができないみたいな。
そんなことを考えても、本当に受け止め方一つだよなと思うのだ。
斎藤一人氏の言葉
ショッピングセンターに行けば、安全で清潔で快適な温度で綺麗な服や靴や鞄があって、美味しいものが食べることができる。
これが天国じゃなくてなんなんだと。
言われてみれば、確かにそうだよなと思うものな。
それを当たり前と捉えるか、天国と捉えるかで世界は様相を変える。
ショッピングセンターの環境は果たして当たり前か?
当然や常識からすれば当たり前かもしれない。
でも、過酷な工事現場と比較してもいいし、それこそウクライナの製鉄所に籠城している時と比較してもいいかもしれない。
どんな恵まれた環境でも当たり前と考えるようになったらすべて満たされても不満だよな。
足りるを知らないんだから。
だからこそ、それこそ五体満足なだけでラッキーじゃないと受け止め方を変える教育を受けるべきだと思うのだ。
毎日、好きなもの食って、好き勝手言って、酒が飲めて、仕事があり、店に行けばマスターと呼ばれ、日常はラッキーしか起きていない。
飲み屋の娘も誘えば飯来たり、アフターも来たりする。
私のどこに幸福じゃない要素があるんだろうか。
今までの考え方を変えるという考え方を学ぶこと、受け止め方を変えるという発想を持つ事。
そして何より、自分のラッキーや幸福を肯定することを決める事。
心が変われば行動が変わる 行動が変われば習慣が変わる 習慣が変われば人格が変わる 人格が変われば運命が変わる
心って受け止め方じゃない?
すみなすものは心なりけりだしな。
そんなことを思わされたりしたんだよな。
人を救えるなんて高慢な事さらさら思っちゃいないが、自分事であれば咀嚼の仕方や消化の仕方は分かっている。
これが正しいとは限らないけれども、少なくとも私は自分はラッキーで幸福だと思えている。
負のオーラを漂わせているよりは、メリットデメリットで言えばメリットがあると私には思えるので、そんな究極の選択するくらいなら私と同じような考え方した方がすべての人にとってマイナスにはならないと思うんだよね。
余計なお世話だけれども。