生きている営みのほとんど全てが、賭けの連続である。 安部譲二
日本の小説家・漫画原作者
東京池田山(現・東京都品川区東五反田)の母の実家に育ち、森村学園幼稚園に通う。
戦争中は熱海の祖母の別荘に疎開。軍属としてシンガポールに出征した父の残した本箱にあったシェイクスピア全集や漱石全集、世界文学全集、プルターク英雄伝、名将言行録などを国民学校(現在の小学校)低学年にして片っ端から読破。
東京都港区立麻布小学校では神童と呼ばれた。
麻布中学校2年の時、江戸川乱歩主宰の雑誌にアブノーマルな官能系の小説を投稿し、乱歩から「この子は心が病んでいる」と言われ、北鎌倉の寺で写経をさせられた。
作品には刑務所関連・ギャンブル関連・暴力団関連の物が多い。
生きていること自体がギャンブルであると言う発想は私も同感だ。
時間の最小限毎になんらかの偶然の要素があり・・・
大分昔に死亡抽選という考え方をしていた。
毎秒といっては大まかだが・・・
認識できる最小の時間の単位で死亡抽選が行われており・・・
それに当選すると病になったり、なんらかの事故や災害に巻き込まれて死亡するといったことを数年前に考えていた。
今でもそう間違っていないのではないかと思っている。
結局・・・
運が実力だと思うようになったとおり・・・
常に偶然や運の要素と言うのはすべてに介在していると思うのだ。
例えば、受験、面接。
たまたま自分の得意である問題が出たり、気が合う人が面接官だったり・・・
そんなツキの要素が溢れている以上・・・・
それはギャンブルではないか?と。
ギャンブルが嫌いだと言おうがなんだろうが・・・・
偶然に結果が影響を受けている以上・・・
強制参加なのだ。
嫌うこと自体が違うのではないかとも思えるが・・・
ギャンブルの要素がないことなどあるだろうか?
逆に考えてみてほしい。
確実に見える事ですら・・・・
その確実はあくまでも認識や願望であって、100%が保障されている物ではない。
それこそ落雷や隕石にだってぶつかる可能性は、薄かろうと存在する。
可能性は存在するだけで・・・・
それは起き得るということだ。
絶対ではない、しかも期限があるわけでもない。
ただ起きてもおかしいことではないということなのだ。
だから・・・
すべてがギャンブルであるという発想は私も同感であり・・・
すべてがギャンブルである以上・・・・
それを知ることは、望みや願望を持っているのであれば必要なことなのではないだろうか?
そんなことを思う。
最近はヒキが強い人ほど仲間が多いなと思う事が多い・・・
誰と付き合うかは重要で・・・・
運がいい人と絡んでいればその人の運に守られたりすることもそれなりにある・・・・
運の要素がない事などほとんど存在しないのだから・・・・
いや・・・
人間的魅力と運は比例する気がするのだよな・・・・
最近思う話はだが・・・・・