エヴァンゲリオンの台詞みたいになっているが・・・・
そう、3年ぶりなのだ。
何の話かというとインドに行くことになった。
しかも急遽だ。
このご時勢によく行くねとも言われるが、何度も記載しているように一番恐れるべきことは何もしない事だ。
20代の頃は己を知らなさすぎて勘違いしていたけれども、私なんかは凡人中の凡人だ。
決して天才ではないし、今から天才のなろうとしてもなれるものではない。
天才ではない人間が、天才が手にするような結果と同じものを手にするためには偶然の大当たりが必要だ。
恐ろしい事に、我々は誤解を植え付けられて生きている。
結果を起点に考えてみると、当たり前と思われているほとんどが実は結果に対しては間違っている。
なのに、それを疑えない教育を受けてしまっているんだよな。
教える側がそもそも誤解を正しいと思っているという事も問題なんだけれども。
慎重さをクレバーと考える風潮があるが、これは結果に対しては正しくなく、慎重さは何もしない事と同義になってしまう。
天才ではないのに、天才的な結果を手にした人の大部分は、たまたまラッキーだっただけなのだよな。
ダーウィンの進化論で、変化に強い者が生き残るとかこれまた誤解が流れているが、本当は運が良かった者が生き残ると記載されているのだ。
ただ、そのラッキーや偶然は何もしないで待っていても決して起きない。
行動という挑戦があって、宝くじを無料で買い続けてたまたか当たる物なのだ。
計算して当てられる人間なんかほとんど存在しないし、そもそも我々に与えられる情報はミスリードするように誤解するようになるような情報しか与えられない。
だから、天才ではない人間はそもそも正しい結果を予想するという行為そのものが間違っており、起きた結果に対して対処するのが正しい。
こうしたらとか、こうなったらこうしようという発想は、そう考えるようなミスリード情報が与えられているので、そもそもそうならない。
だから、凡人の唯一の非凡な結果の手に仕方はとにかくなんでもやってみることなんだよな。
勿論、リスクもある。
そのリスクが、再生できるか、復活できるか、蘇生できるかにある。
かすり傷くらいのリスクはいくら負ってもいい。
下手な授業料を支払うよりもよっぽど安いし、学べるものや、やったことで増える選択肢が次の宝くじ売り場へと続く道となる。
それに、当たり前だけれども、私自身も他者に対して思うが、何もしない人に可能性を感じない。
可能性を感じない人って面白くないし、つまらない人だと感じてしまう。
つまらない人に協力しようとする人も少ないし、つまらない人に会おうと思う人もいない。
でも何かをしている人には損得関係なしに可能性を感じるんだよな。
逆転して考えれば、それは他者が私に対しても同じだと思うのだ。
運や、偶然や、ラッキーを手にするためには他者の協力が不可欠だし、面白いと思えばそれを提供してくれる可能性がある。
なので兎にも角にも「DO」なのだ。
インドにって、ちょいとプレゼンしてこようと思っている。
上手くいけば、凡人が非凡な結果を手にできるかもしれない。