さて・・・
最近、ノーレートのフリー雀荘に行くことが多い。
ノーレートだが、一応皆トップを狙ってくるのでそれなりに楽しめるが・・・・
一見で行った時は皆手慣れた感じが上手そうに見えたが・・・・
通っているうちに長く麻雀していても意外に下手だなと思う人が結構いる事に気づかされた。
というのも、麻雀もコミュニケーションも多分主体は自分じゃなくて相手なんだよな・・・
以前に麻雀の中級の本や阿佐田哲也氏の麻雀放浪記や麻雀に関する本でも記載があったが・・・・
見るべきは自分の手じゃなくて人の動きと言っていたが、今ならよく分かるんだよな。
結局、自分の手しか見ないということは他人に興味がなく、コミュニケーションもできる発想にないんだよな・・・
けれども、麻雀も社会も人が織りなしているので・・・・
対戦相手や自分以外の相手がどうかを考えないとうまく回らない。
なので自分の手を見てあがるのが難しそうであれば・・・
他人に楽をさせないようにしなければならない・・・・
なので手が安いし遠そうなら普通に暗刻お賭しからも私はやるし・・・・
自分が駄目なら他の人にどうやってミスを誘発するかに専念するようにしている。
でも多分、自分の手しか見ていない人が結構多く・・・・
そうするとそれしか見ていないため、よくミスって落ちていくんだよな・・・
これって自分の話しかしない人のコミュニケーションと似ているなと思わされるのだ。
ということは麻雀もコミュニケーションも相手が存在している以上、基本的に自分ではなく主体を相手にした方が上手くやれるのではないかという気がしている。
そう、会社の指示もそうなんだけれども・・・
先にテイカーであることを求めるんだよな
先に何かをくれたら何かをしてあげます的な
そんなところと付き合いたい会社なんか存在しないと思うんだが・・・・
何故かそれが当然的な事を言ってくる。
これも主体がまずは自分だから売れない考え方なのであって、先に与えて返ってこない相手を弾いていく方が正解だと思うのだ。
でも多分・・・
そう言っても分からないだろうな・・・
そもそも対外的に顔を立てさせてあげようとかそういう発想がないものな。
だから営業も消耗する
対外的に顔が立たなくなっていって信用が損なわれていくため、その業界の次がなくなるような指示が来るもんな・・・・
てことはこれも主体が自分である発想だから、人が辞めたり上手くいかない方法を取ったりするんだろう。
麻雀は以前に縮図だと思った事が何度もあったが・・・
そう思っていた当時ですら主体や視点の立ち位置を理解していなかった。
逆に言えば自分が気づかないだけで、与えられているヒントや素材は実は十分すぎるほどの物があるかもしれないんだよな。
学びを止めてしまう事が一番恐るべきことなのかもしれない。
そんなことをフリー雀荘で思わされた。
なんでも出るポン爺さんがいたんだが・・・
酷かったもんな・・・
裸単騎に一晩で3回くらいなっていたし・・・
4人麻雀でフリーで裸単騎で一晩に3回も待つ人いるだろうか・・・?
とてもトップが獲れるやり方ではないと思うと、偏りを作り出してしまうので周りの人を見ていないという事なんだろうけれども・・・・
何気に鳴く人はあまり怖くないんだよな・・・
打っても安いと思っているのでバシバシいらない牌をきってプレッシャーをかけるのが好きだったりもする。
下手にすぐ鳴いていて安い分、覚悟もないので降りるのも早い。
そこで本来なら起きる結果を捻じ曲げてツキを引き寄せていると思っているが・・・・
どうだろか・・・