さて・・・
ネットを見ていたら最近池袋の車の暴走事故で逮捕されなかった元官僚の批判で・・・
上級国民は逮捕されないという事が批判の対象になっているようだが・・・・
そもそも上級国民の条件ってなんだよと思ったんだけれども・・・・
明確な定義はなく、ただそうやって過去に国の要職についていたり、富裕層であればその条件を満たしていると考えられているようだが・・・
ひろゆき氏の言葉を引用させてもらうと・・・・
「上級国民」というワードがよく聞かれますけど、政治にコネのある理事長が犯罪してもすぐに釈放されるようなことが現実に起きています。強姦を繰り返している大学生も逮捕されましたが、実家が土建業を営む大富豪であるためか、不起訴となりました。
また、最近では池袋での暴走事故が有名ですが、この先の判決が待たれていますよね。同じようなケースで、80代で人を跳ねたバス運転手がいましたが、その人は逮捕されました。なのに、池袋の事故のときはなぜか逮捕されなかったんです。
というように、偉い人の犯罪は、なぜか不起訴になることが多いんです。上級国民は刑務所に行かないんですよね。その一方で、叩き上げの経営者のような人や、成り上がりのIT起業家はあっさり逮捕されてしまいます。まさに士農工商の考え方が残っている感じがしますよ。
上記のコメントを残しているようだが・・・
流石にこれには違和感を私は感じる。
確かにホリエモンは逮捕されて、刑事罰受けたけれども・・・
これって一般国民と上級国民が存在しているのではなく・・・
ちょっと前に書いた記事のように・・・
結果を変える事の出来る人との接点を持っており、どうにかして結果を変えてもらっただけに過ぎない。
それまでの蓄積や信用の貯金を支払って、結果を変えられる人に結果を変えてもらっただけの話であって・・・
別に一般国民や上級国民と言った区別があるわけではないと思うのだ。
ただ、一般国民と呼ばれる層にそもそも結果を変える事の出来る人との接点を作るのが難しいので・・・
そこでどうしても差はでてしまうし、親の経済力で前提や所属できる社会が変わってくるのは不平等は不平等だと思うのだけれども・・・
でも、そもそも世の中は公平ではない事が当たり前であり・・・・
それに気づいて、江戸時代の日米修好通商条約ではないが・・・
不平等を埋めるために自分の可変可能な部分を変えて、結果をブラッシュアップしていくしかない。
でも、そもそも日本に生まれている時点で・・・・
自我もないまま餓死するようなところに誕生することに比べたら大分、世界にえこひいいきされている。
生存可能が当たり前という恵まれている環境が恵まれていると思わないから、認識できないから、上級国民と揶揄して自分との違いを理不尽だと声を上げるが・・・・
最初から何かを得ようと行動していなかったり、結果を変える事の出来る人に結果を変えてもらおうと行動していなければ・・・
怠惰のツケを支払っているだけなので不平等で当たり前なんだよな。
ホリエモンが逮捕されたのは、結果を変えられる人との接点がなかったのか、鼻につくような事をして結果を変えられる人に結果を変えてもらえなかったのか・・・・
何気に江戸時代から明治時代になった時に貴族精度ができたと思う。
所謂華族ってやつだ。
これっていつまで続いていたのか気になってみてみたら・・・・
1947年・・・・
つまり終戦の2年後まで貴族は存在したんだよな。
まあ、上級国民というネットスラングは一つの幻想だなと思うんだけれども・・・・
重要なのは違いがあるとしたら、結果は出てからでも変えられる、スポーツと違い明らかに勝負がついていても、勝敗をひっくり返すことができる事を知っているかと・・・
結果を変えられる人に結果を変えてもらおうとすることを知っているかなんじゃないかと思うんだよな。
そういえば・・・・
東スポ買ったら井崎 脩五郎のコラムが乗っていたんだけれども・・・・
丁度井崎 脩五郎が産まれたのが貴族制度の無くなった年1947年・・・・
江戸時代から明治時代になったのが1868年・・・・
そのコラムにあったのが、自分が生まれた年、戦後のその年から80年前江戸時代だったという話。
戦後から2年経った時にはすでに江戸時代は遠い昔の事。
逆に言えば、私が産まれた100年前が江戸時代だったんだよな。
もう40年も生きているけれども・・・・
てことは終戦が1945年・・・
私の子供の頃は戦争の話をよく聞いたけれども・・・・
今産まれた人からすれば80年前の話・・・
我々が聞く江戸時代の話と何ら変わらないんだよな・・・・
もう昭和ですら遠い昔の話なのかもしれない・・・
阪神大震災と関東大震災ってもう同じ括りなのかもしれないよな・・・
そんなことを思わされた。