信じるという行為は、騙されるというリスクを合わせて受容する、ということなのだ。 森巣 博
作家、ギャンブラー
ギャンブル系の小説を多々記載しているらしい。
これまたまさにその通りだ。
ある意味信じると言う行為も博打そのものじゃないだろうか。
人は必ず、何かの行動をすることで対価を受け取っている。
無償なんてものは厳密には存在しない。
というもの、結局突き詰めれば無償で行う行為も、その対象の喜びを見たいとか感謝を得たい、時間を共有したいといった目に見えない対価を受け取ることになるからだ。
少なくとも、等価交換ではないにせよなんらかの交換は生じる。
最終的には信がすべてと以前に書いたが・・・・
今でもそれは間違っていないと思う。
だが、信は逆にいえば騙されるリスクでもある。
そのリスクと、安全とを天秤にかけて張るのだから・・・
これも十二分にギャンブルだと思うのだが。
そんな人だと思わなかったというのはそもそも判断をミスしているわけで、ギャンブルだと思えば、リスクヘッジの甘さを思い知るだけだと思うのだよな。
繰り返しになるが、ギャンブルの必勝法は負けないことであり、負けないためには相手のミスを誘発し、自滅をさせることなのだ。
そして・・・
人生をうまくやるコツは損失をそっと次の人に回すこと。
さらに言えば・・・
見る人によっては・・・
生きている営みのほとんど全てが、賭けの連続である。 安部譲二
そう考えると・・・
信じる対象の判断ミスは・・・・
賭けに負けていることになるのだ。
負けたらろくなことはない。
すべてが勝負事ではないと言う人もいるが・・・
ギャンブラーと言う人種はそうは考えない。
と持論をマキャベリのように熱弁してみたが・・・・
こんな風に解釈してみた・・・
ただ、人は必ず何かを信じないと正誤の判断がつかない・・・・
情報が疑わしくても、疑わしいと思う感性だったり何かを信じているわけだ・・・・