まあ、何の話?
と思うかもしれない。
集めてますか?っていう事なんだけれども、最近思うんだけれども私ってコレクターだったんだよね。
何のか?
納得のコレクター
インドに行く前にダイエットを無視しまくって、日本食の美味しいと思う物を食べまくっている。
インドで何があるかは実際に分からない。
普通に日本で生きていたって、明日心筋梗塞になる可能性だって0じゃない。
だからこそ、今日今生きている瞬間が重要で、ナウを最大限に楽しむ方がいいと思うのだ。
そんなわけで、絶対の存在を信じていないので、私自身も渡航する事で薄いとは思うが生命のリスクは抱えていると思っている。
だから、何かあっても後悔しないようにと美味いと思う寿司と卵料理を今日食べてきた。
その時に 何故自分自身がそういった行為をしているかとふと疑問が浮かんだ。
降ってわいた回答が「納得するためだな」という答えだった。
そうかと、何か有事の時に、その最期の瞬間に今までの人生良かったと納得する理由を集めるためだなと。
つまり、納得のコレクターなんだよな。
こんなことをした、こんな美味い物を食べた、良い生き方したんじゃないか?
そう納得するための理由というか納得のピースを集めを日々しているんだな、私は。
何か物を集めるのと似ている。
コレクターは結局、疑似的に納得を集めているのかもしれない。
俺は本質的な納得を求めているが。
ゲームでネコ集めというゲームが一時人気だったが、収集は形を変えた人生の納得なんじゃないのとアルコールが高速回転して錆びついた脳が問いを投げかける。
そうか、そうだよな
その先には覚悟の話になるんだけれども。
武士の言葉に常在戦場という言葉がある。
意味合いとしては・・・
「常在戦場(じょうざいせんじょう)」とは「戦場にいる心構えや気持ちでものごとに当たれ」という武士の心得をたとえた言葉。
戦場であれば当然、次の瞬間には自分が討ち取られる可能性があるのだ。
それこそ九州の戦国大名の龍造寺隆信はその30分前ですら、状況的に自分に最期の時が来るとは思っていなかったはずだ。
常在戦場は今では結構安易な意味で使われているけれども、明日が最期の日かもしれないという覚悟は、行動に大きく影響を及ぼすと思うのだ。
日本は安全すぎて、死が遠すぎる。
死が遠いからこそ、それを遥か未来の事と誤解して時間を粗末に扱う。
失うかもしれないリスクが目の前に見えないから、その価値に気づけない。
けれども、明日死ぬかもしれないという意識があれば、今がまだ生きている、選択ができる状況であることに否が応でも気づかされる。
そうしたら残された時間で最善を尽くそうと誰でも思うのではないだろうか。
そして、最善を尽くし続けたら予期せぬその時が来たとしても、これだけ楽しいと思える最善を尽くしたし、仕方がないよなと思えるんじゃないかと私は思っている。
その瞬間に仕方がないと納得できる理由集め、ピース集めが日々の最善なんじゃないかと今の綿sは思うんだよな。
ある種覚悟を持って生きているつもりなので、普通を演じる、自分を偽り続ける舞台から降りて自分の正義でいいと思ってしまうんだろうな。
だから納得コレクターなんだろうね、私は
人からコロナリスクを糾弾されても、インドに行くのも自分の納得のため。
他人の正義に振り回されて、納得できない事しても後悔しか残らないんじゃないかと私は思うのだよな。
積み重ねよう、納得を
毎日
毎日の結果が最終的な自分の人生の結果だ。
無茶を言うなとか、責任を負ってないから言えるとかそういう発想もあるのは理解できる。
でも、それってできない理由にして自分を正当化しているだけで、納得できるかできないかは自分次第だ。
自分事に関しては決めるのはいつだって自分で、他者じゃない。
人の所為にして、納得できない事をやり続けたり、納得を収集しない行為は最期の時に後悔を呼ぶ。
だから、もうある意味終活を始めてるのかもしれない。
いや、生まれながら人間は終活を始めているんだろうけれども、まだ時間はあると思うが、それこそ知床遊覧船のように、予期せぬその時はありうるのだ。
だから、そうなったときにこうだったから仕方がない。
そう思えるような、納得の破片を集め続けている。