やはり一瞬の違和感はギフトって感覚と同じだよね。

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この記事でも記載したが・・・・

は重要で・・・ なんとなく嫌だなとか違和感を感じる事は素直に受け止めた方がいいという話。 昔、むさぼるように読んでいたリアルなホ...

人間のギフトって感覚は超重要だと思っている・・・

何か違う、何か違和感がある・・・・

その感覚って時の経過と共に間違っていない事を証明されるから結構重視している・・・・

最近もその違和感が現実になった事がいくつかあり・・・・

感覚って超重要だなというか・・・

過去の学習の集大成のようなものなんだろうなと・・・

一瞬で感じる多角的な要素の結果、自分で得た知識が自分に警鐘を鳴らしている。

よくよく考えれば・・・・

飲食店の客でも、立場上それはおかしいだろうという事を言ってくる客もいるが・・・

ここに違和感を感じたので、あまり深入りしちゃいけないんだろうなと改めて思うし・・・・

能力的にある人でもメンタルの弱さで取り乱すと、自分が助かるためだけに行動しそうな違和感もあるのでこの人は安全が約束された場所でのみ信用ができる人だったりするし・・・

私に営業をかけてくるプロの女性バーテンダーとかも、長くやり取りしていると、怒る必要がなく流したりすればいいのに、そこで怒るとか面倒くさいと思わされる違和感を感じる。

この違和感の正体は多分、自分が私を客として簡単に利用できるようにするための教育を私にしているんだろうなと感じた違和感なんだよな。

逆に言えば、都合よく利用しようとする人って事なんだろうなと思えてしまうのだ。

別に私は完璧な人間とは程遠いが、人間は格好もつけられなくなったら終わりだと思っているし、自分のために人を利用してやろう的な汚さに敏感で。清廉潔白でもなんでもないんだけれども、他者利用的な汚さに対してだけは潔癖症なんだよな。

組織とか個が大きな傷を受けるような事ではないグレーゾーン的な事なら飲み込んでもいいんじゃないのと思えてしまうが、特定の個人にダメージを与えうる汚さが嫌いだ。

だから会社の女性社員でも自分が都合よく楽に仕事をするために他を攻撃したり、上を使って人に押し付けたり、自分のミスを他人の所為にしたりする汚さが見えると妖怪に見えてしまう。

結局、今まで生きてきた経験上、個人という経済とかにおいても容量というかキャパシティに限界がある対象に対してその存在自体を崩壊させうるかもしれない事を厭わない人というのは、視点が自分にしかなく、協力関係を築けるような信用性に足りないと私が無意識に判断してしまい、そういった人とかかわるとテイカーだから避けておけということなんだろうね。

貧すれば鈍するは本当で、どれだけ良い人で困れば何でもする。

逆に言えば、格好つけられなくなったり不義理を働くようになってしまったら、もうその人は社会的に終わっていて、テイカーにならざるを得ないという事。

ただそうなりそうな違和感って随所に感じるときがあるんだよな・・・

私の常識が正しいとは全く思っていないが・・・・

社会生活を円滑に営む上ではここはこうだろうというポイントは言うほど外していない

だからこそ、そのポイントからずれると物凄く違和感を感じるのだよな・・・

結果的にどれだけ口でいい事を言っていたり・・・

利害でダメージが少ないところではいい人であり続けたとしても・・・・

違和感を感じる人は肝心なところでやはり不義理を平気で行う。

そして、棚上げして自分を正当化してくる。

まあ、これはデールカーネギーの「人を動かす」という書籍の最初に記載されている通り・・・・

どんな犯罪者でも自分が悪いとは誰も思っていない。

仕方がない理由が存在していて、そうなったのは仕方がないと思っているのだ。

でもそれは相手側の視点であって、こちら側ではない。

こちら側は相手の仕方がなかった理由なんぞに巻き込まれて致命傷を負うわけにはいかない。

結局、結果に何度否定されても自分が間違っているかもしれないと考えられない人間は何度も同じ事のループに巻き込まれるし、よりメッセージ性が高まり酷い状況・・・

つまり強い警告を受けるようになってしまう。

望む結果が一度も出ていないのだとしたら、多分、考え方ややり方が間違っているんだけれども、それに気づけないんだよな、普通の人は。

だから、私の母もそうだけれども、退職ラッシュのうちの会社もそう、家を一か月で2度無くした客もそう、70年間、20年間、50年間、それぞれ同じ過ちをラットレースのハムスターのケージの車輪のように何度も何度も繰り返している。

経営理念が社員の幸福を第一とか記載されているって事は現状がそれとは程遠いからそうなるんだよな。

でも現状が間違っているという事で、間違いを正そうとして同じ間違いを繰り返していることになる。

同様に、すべての情報の共有をして信頼関係を構築しましょうとか言う時点で、言っている人がそんなこと自分はするつもりはないけれども相手にだけそれを求めますという宣言と同じだよな。

やはり人間言葉には嘘があるけれども行動に嘘がなく、真実で・・・

言葉と行動に乖離があると結果的にやはりテイカーなんだよな・・・・

一貫性って重要で、言葉と行動の乖離の少なさが信用の大きななのではないかと思ったりもする。

だからこそ、先日会った狸親父も・・・

利害関係が一致している間は信用できるが、そうじゃなくなった瞬間に平気で不義理を働くだろなという違和感はあるし・・・・

けれども、大丈夫な場所においては絶対大丈夫だろうなとおもうのだ。

犬の順位付けではないが、人も優先順位ってつけていると思う。

それと同様に、条件付けというか・・・

私は信用の条件付けを無意識にしていると思っている。

それが違和感という物差しを基準にしているんだけれども・・・

曖昧な物だからな・・・・

けれども、結構その物差し外さないんだよな。

まあ全般にもろ手をあげて信用できる人というのはそうはいないんだけれども・・・・

条件が整えば信用できる人はそれなりにいる。

こういう条件付きの人でもなかなか貴重な存在なので、上手く信頼関係を維持しなければならないんだろうけれども・・・

信用性も知性に比例する気がするんだよな。

本当に賢い人ほど信用を重視するし・・・

見えるものより見えない物の方が結果的に価値が高い。

目に見えない信用という物を損なうと再起不能になるんだけれどもね。

だからこそ、ギバーであり続けるべきだと思っているが・・・

結果に否定されたら考え方も含めて、自分の能力も見直さないとならないかもしれない。

足りないなら足りる人と組む必要があるし。

自分の能力を知る、己を知るってのも結果にお伺いを立てるべきなんだよな。

己を知らなければ前に進めないし、永遠ループのハムスターの車輪から抜け出せなくなってしまう。

まあ、いずれにしても違和感を感じたら即撤収くらいでいいのかもしれないな。

私自身も人に違和感を与えているとは思うけれども、取り繕わなさやド正直さの部分だと思うからある意味似たような人は信用に足るかもなと思うのだ。

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