2005年3月1日より楽天ブログ「ギャンブルで大破滅」を11年毎日更新し運営していた宇宙一ツイているギャンブラーN島です・・・
この度自由さを求めて独自ドメインのこちらに引っ越すことにしました・・・
ギャンブル界のナポレオンヒルを目指しています。
↓
ギャンブル界のナポレオンヒル
こちらの引っ越し先でもよろしくお願いします。
初めましての人もいるかと思いますので、簡単に自己紹介させてもらいます・・・
ハンドルネーム N島
生年月日 1979年11月21日
血液型 AB型
地域 神奈川県
経歴
1979年11月、神奈川県横浜市瀬谷区にて長男として誕生する。
2歳になったある日、父親に抱きかかえられ自販機で父親が缶ジュースを買ってくれた時、貨幣という物の神通力を脳髄に叩き込まれる。
その時にお金があれば欲しいものを手に入れることができると学習した私は棚をよじ登り、壁にかけてあった母親のバックから現金を手に入れ自販機にて缶ジュース3本(両親分を含む)を購入して帰宅したらしい。
両親にやたら飲めと薦めたらしいが、善悪の判断のつかない時期なので、悪意はないが我ながら目的に対する執着を感じる。
今も同じ執着があれば非凡と呼ばれる人間になっていたかもしれない。
1982年、3歳になる年に横浜市瀬谷区から転居し、現在の住まいへ。
私の両親はなかなかの完璧な放任主義者だったのと、私自身が刺激がないと生きていけないギャンブラーの性を如何なく発揮し、3歳にて一人で出歩き、遊ぶようになる。
今考えると、よく無事で今まで生きていたものだと我ながら感心する。流石宇宙一ツイていると言わざるを得ない。
このご時勢で今や小学生の高学年まで父母や祖父母が子供の遊びに付添う中、左右も見ずに道路を飛び出していた私は何度も車に轢殺されそうになったりしたが、宇宙一のツキで五体満足無事故で生き残る。
おそらく飛び出しギャンブルに勝ち続けていたのだろう。
ただ、ここでその後の私をギャンブラーにしてしまった運命的な出会いがある。
それがピカデリーサーカスだ。
いわゆるただのルーレットゲームなのだが、子供心にこれほど刺激的な遊びはなく、放任主義のため3歳にてお小遣いをねだるようになっていた私はすべてをピカデリーサーカスにつぎ込んだ。
無論、ゲームなので見返りは何もなかったが、10倍や8倍にBETして当たった時の快楽の完全なる虜になる。
これは小学一年生になるくらいまで、張り続けた。
この時はかなりの強運を持っており、基本的に負けると言う概念が私の脳内には存在しなかった。
このギャンブルで勝負をするという意志を持った私は、それこそ始皇帝のような態度で幼稚園生時代を送った。
何もかもがスローに見えると言っても過言ではないくらい、絶頂期だったと思う。
近所では将来とんでもない悪党か大物になると噂された。
が現実は噂とは程遠い。
そして自宅の近所がパチンコ屋だったのと、両親がパチンコにハマったため・・・
3歳にてパチンコデビューを飾る。
パチンコ屋に入りびたり、拾った球で羽物を打ち、よく大当たりさせていたが、金を払っていないのでいつもヤクルト一本で出玉を没収された。
買ってもらったアイスの棒で、券売機とかの下をほじるとよく玉が出てきた。
そして同じく入り浸っていた見目麗しくないお婆さんに貸してみろとアイスの棒を奪い取られ、奥からつつき出されたパチンコ玉の壮絶な奪い合いをする。
このとき、カイジの奪わなきゃ奪われると言う概念を理解する。
1987年 小学生3年生の時から
おそらく私が入学した大学では存在しえないと思うが、いわゆる通信簿でオール1をありがたく頂戴する。
塾や習い事に嫌悪感を抱いており、レッドブルよりも翼を望んでいた私は、親がそれなりの金額を支払って入れた習い事を悉く自主休講していた。
このころ駄菓子屋のゲームにハマっていた。
無論、ギャンブルだ。
このようなパチンコ台で、3倍のコースを通った後、5枚のところに入ると15枚メダルが回収ができ・・・
メダル1枚は10円のお菓子と等価交換できた。
つまり、持参した現金で買えないものも増やして買うと言う真のギャンブルの醍醐味を知る事となる。
同時に駄菓子屋の月給くじにもハマった。
今考えると期待値は恐ろしく低いが、負ける気はしていなかった。
お小遣い明細から天引きされる内容と額面によく憤慨したものだ。
そんな高いラーメンなど食べないとか。
このあたりから加速度的にギャンブル無しでは生きている事を感じれなくなっていく。
またビックリマンシールが流行っていたこともあり、ヘッドシールをかけてのじゃんけんによるビックリマンシールの奪い合いというギャンブルにもハマるようになる。
友人二人といろいろな地に遠征し、知らない子供に声を掛けじゃんけんによるビックリマンシールの取り合いをしないかと持ち掛けた。
狙いは一人でいる子で、こちらは二人で行き、二人のうちどちらかが勝てばその子のシールを貰いというタッグを組んでいたので長期的に見れば負けることはなかったと思われる。
1992年、中学生に入学した私は様々なカードゲームにハマルようになる。
トランプによる大富豪や、ブラックジャック、ポーカーなどによってお小遣いの奪い合いをするようになる。
中でも人生ゲーム2のカードバージョンは面白く、これによる勝負をよく行っていた。
この年齢になっても十分楽しめる内容だと思う。入手困難だけれども、まだ手元にもある。
またいただきストリート2にもハマリ、これによるギャンブルも行っていた。
張れればそれで何でも良かった。
ただ、この時、ギャンブルの快楽ばかりを求めていた私は本気を出さない事を格好の良い事と勘違いし、いつも手を抜いて生きていた。
塾だけは真面目に通ったものの、勉強をするという概念を捨て、手を抜きながらも平均より上位にいることが格好いいと言う今なら張り倒したくなるような誤った認識を持っていた。
結果と行動とがすべてであり、顕在能力が結果なのだから、それを含めて、強い意志で何かを為すという事が重要で最初からそれをしないという事自体が、とんでもない人生の罠になっていることをこの時は知る由もなかった。
相変わらず駄菓子屋でギャンブル的要素のあるゲームに傾倒しており・・・
人生最大の無駄引きをこのときしてしまった・・・
それがこれ・・・
名前はよく分からないが・・・・
これでどのくらいの確率かしらないが、たまたま8BETしたらオール7揃いで1250クレジットくらいになった。
100円で50クレジットで、50クレジットでメダル1枚と交換出来て、メダル1枚が駄菓子屋で50円のお菓子と交換ができた。
駄菓子屋を潰しかねないとんでもないラッキーで・・・
250枚×50円の価値だから・・・・
12.5K分・・・・
それなりの焼きそばだのお菓子だおジュースだのと交換したが・・・・
結局は8ラインに8BETなどしてレートを上げて飲まれることになる・・・
この時、レートが一定であるべきことを学んでいればと思わざるを得ない。
1995年、高校1年生の時にダービースタリオン3が熱狂的に流行り、例外に漏れず競馬好きになる。サイキョウクラウドは本当に強かった。
同じ中学から同じ高校に入学した悪友に唆され、15歳の高校一年生にしてまさかの競馬デビュー。
初めて見た生の競馬は阪神大震災の年の阪神大章典。
ナリタブライアンがハギノリアルキングを9馬身ちぎって圧勝したレース。
素直に感動した。
キリンから出ていたキリリというオレンジジュースを飲みながら競馬を観戦するのが毎週土日の恒例行事になった。
金は無論ないが、一人っ子の長男だった私は母親にせびり、馬券を購入してもらっては壊滅的に負け続けていた。
最初に購入したのはエアダブリンが1番人気で、2回目にライスシャワーが勝った天皇賞春。
当時からセンスの欠片もなかった私は、何も学ばないままただただ前走着順の良い馬を買っていた。
毎週競馬を買うのに、その年のダービーまで1度も当たらなかった・・・
ダービーはタヤスツヨシを本命にし、ジェニュインを含め6点購入。
このころはもうヒキが弱い人に成り下がっており、センスもないので気持ちがいいくらい負け続けた。
そして買い方も死にそうで、このダービーも4頭ボックスで馬連6点購入して5.9倍という初当たりにしてトリガミという買い方として最低の買い方をしている。
手を抜いて結果を出すことを中学時代から引き続き格好いいと人生最大の過ちと言ってもいいくらいの勘違いをしていた私は何も学ばなかった。
そして負け続けた。
エリザベス女王杯で前走の成績が良くて人気薄で万馬券となったサクラキャンドルとブライトサンディーの万馬券を獲るまでは。
だが、今なら突っ込みどころしかなく、絶対に負けると言い切れる買い方だ。
まず、前走の着順がいい馬を買っている時点で終わっている。
オッズの低くなる不利な馬を自分から購入しに行っているのだ。
競馬は毎回能力を出し切れて不利なく走れるわけではないのだから、理由があって負けているか、理由は不明だが強い馬が何故か負けて、人気が落ちている時を買うべきなのだ。
しかし、何もかも分かっていなかった私は何度結果に否定されても、結果を起点に考えることもなく、努力もせずに同じ過ちを繰り返し続けた。
過ちて改めざる、これを過ちというとは論語の真理だと私が思う事だけれども・・・・
同じことを繰り返しながら違う結果を望むこと、これを狂気というと言うアインシュタインの言う狂人であり続けた。
今の私なら言いたい事が山ほどある。
まずボックスという時点で外れを受け入れる覚悟がない。
外れを受け入れられないと言うのはギャンブルにおけるもっとも負ける考え方だ。
外れたら仕方がないと言う、受け入れる覚悟もなければ、自分に起きる負の結果を許せなかった。
感情に完全に支配されており、重賞だからと根拠もなくやみくもに親に甘えて馬券を買い続けていた。
そして負けることが当たり前のこととして受け入れていた。
だが、考え方を変えれば、この時に負けを知っていたことが宇宙一ツイていると言えるかもしれない。
社会人になってからこのスタートでは今の私になる前に詰んでいたかもしれない。
そして高校二年生の時、センスのないまま修学旅行で北海道に行き、悪友二人と札幌競馬場に抜け出した。
丁度父親の仕事の関係で我が家は経済的に最も厳しい時期を迎えており、そんな中一生に一度の修学旅行で金がないという思いをさせたくないと案じてくれた両親が無理をして60Kほどのお小遣いをくれたのだが・・・
その内50Kを札幌競馬場で溶かし、修学旅行の後半ほぼ無一文でそんな両親にお土産すら買えなかった。
今でも忘れない。
起死回生をかけた1996年6月23日の札幌10Rの小樽特別
相変わらずセンスのないちょっと穴っぽい前走好走した馬から買っていた私は一度も当たらなかった。
そしてこれじゃ駄目だとガチガチの馬券を購入したこのレース
逆転を目指して当時の大枚1万円を藤田騎手の1番人気の単勝に買ったと思う。
丁度フサイチコンコルド本命でこれまたセンスのない買い方でほとんど儲からなったダービーで当てていたこともあったと思う。
結果は・・・・
まさかの馬連10万馬券アンド購入した本命の1番人気の降着・・・
この時の自己嫌悪感はすごかった。
まるで修学旅行を楽しめなかったと思う。
しかし、それでも私は学ばなかった。
もう負け癖と、負けるための思考を刷り込まれていた。
そして・・・・
1997年高校三年生になると、まともに好きになった娘を口説きたくて仕方がなかった。
I川さんという娘だが、色白の笑顔が眩しい高校生にしてはなかなかの母性を強調したスタルをしていた。
ここでも、自宅でゲームとギャンブルしかしてこなかった私は何も学ばないまま勘違いを続けていた。
ちょっとしたステイタスがあれば、そういう娘を口説けると言う恐ろしく短絡的で何もわかっていない発想を持っていた。
だから、高校3年生の9月、それまで何もしてこなかった私はその娘を口説くため・・・・
ひとまず本気で大学受験をはじめた。
生まれて初めてあれは本気だったと言い切れる。
それでどうにか最低限の目標は間に合ったものの・・・
何もわからないままその娘とディズニーランドに行き、大敗。
そもそも経験が少なすぎてトーク力がなさすぎるのと・・・
何も学ばなかったことによる怠惰のツケをお支払いをすることになった。
デートしていたら人間関係の場合、主体は自分じゃなくて相手。
だが、私だけではないがこの年齢の男性は主体は俺がだけしかないくらいの見事なお子様・・・
話す内容も相手がどうかを聞くのではなく、自分がどうかで相手に合わせてもらおうとする状態。
未出走のままG1に出走するようなものだった。
タイムオーバーの壊滅的な負け。
今でもたまに見かけるが、自分がどうかを話す人間は総じて面白くない。
そうじゃない、コミュニケーションの主体は自分ではなくて相手だ。
さらに言ってしまえば、人の魅力はその人が他人に何かをしてあげたエピソードや、何かの行動を起こした結果起きた事件に詰まっている。
ゲームと競馬しかやってこなかった高校生の男子にエピソードなどという物はなく、つまらない人間を極めていたと思う。
ほぼすべてにおいて連戦連敗と言っても過言ではなかった。
そして麻雀も覚えた。
覚えたての頃はやりたくて仕方がなく、50円玉1枚しか持っていなくてもゲームセンターの脱衣麻雀に放り込んだ。
今でも忘れられないのが高校の帰りに、どうしても麻雀をしたかった私は1枚しかない50円玉を握りしめ、同級生という脱衣麻雀を打とうとした。
そして、50円玉を入れたその時・・・・
無情ともいえる二文字が画面に現れた。
それが・・・
天和
私はあんなにも麻雀を打ちたかったのに1枚も牌を切ることないまますごすごとゲームセンターを後にした。
それもゲームというサービスを全く受け入れてないので店員に言うべきだったのだが、当時の私はそんな発想を持っていなかった。
1998年、遠い先輩にブラック企業の象徴とされる創業者がいる都内某マンモス大学に進学をきっかけに競馬サークルに入るという暴挙を行い、府中競馬場のG1がある日は前日から徹夜で並び、開門と同時にゴール前一般席奪取のため、人間スプリンターズステークスに出走するようになる。
アルバイトを始めた事により、資金に余裕ができた私は御多分に漏れず競馬とパチンコにハマる。
そしてセンスとヒキを枯渇させていた私は、毎月給料日と共にすべてパチンコと競馬に溶かしていた。
大体バイト代貰っても一週間持たなかったと思う。
そしてこの時、伝説の漢I氏と大学で同じクラスになり出会う事になる。
旧ブログ伝説の漢I氏今思えば、I氏は買い方は正しかった。
I氏はケーキ工場でアルバイトしており、毎月給料が出るとその週の日曜日のメインに全額1点BETするのだ。
この当時の私には理解できなかったが・・・
今思えばI氏の買い方は最も理に適っていた。
ただ、大学の4年間・・・・
48か月で48レース
I氏は毎月バイト代を一点にすべて賭けるんだが、卒業するまで一度も当たったことを見た事がなかった。
メンタルの強さもI氏は今思えば群を抜いている。
I氏の詳細は上記のリンク先から見ていただきたい。
大学に入学してから毎年競馬サークルで北海道に旅行に行くようになる。
オグリキャップやトウカイテイオーやトロットサンダーを見に行った。
ケンタッキーファームで矢を放ったり(武将と呼んでいた)、雪印パーラーで唇を真っ青にさせながらアイアムNO1というパフェを一人で完食すると言う無謀なことをよくやっていた。
そして競馬サークルの支部長と幹事長を歴任するが、その際に北海道の旅館で近所のコソ泥の中年女性が勝手に旅館に出入りして我々学生の財布を抜いていく事件が起きたり、日高町にある格安のペンション中村亭に宿泊したりした。(今でもおススメだ)
その中村亭でダビスタで産駒の購入資金を負債として、「賞金ー負債」で最も稼いだものが皆が拠出した賞金を総取りというゲームでギャンブルをし、私が購入した500万のニホンピロウィナー産駒「ボウソウキカンシャ」がNHKマイルカップでエルコンドルパサーを下し、見事総合優勝。
大学のテストの際はテスト問屋となり、A君からもらった情報をB君に渡し、B君にもらった情報をA君に流し、両方の情報をC君に流してC君の情報を貰うという事をやり、親不孝の極みともいえるが大学4年間出席で単位が出る物以外一切大学に通わずギャンブルだけをしていた。
2000年、二十歳になったことをきっかけに、スロットを覚える。
デビューしたのはニューパルサーだった。
このころも努力をしなかった私は設定の存在も知らず、ひたすらハマリ台を狙い常に負けていた。
丁度ドンちゃん2が出たころで、設定変更後の子役高確率状態の台を探して良く打ったが、これまたよく負けた。
旧ブログで何度か記載しているチームH(奥さんがガラケーの時彼の暗証番号を1万回試して三日で暗号解読し目覚めと共に包丁がこんにちわ、冬に冷凍した食パンに塩を振て食べると甘いらしい、そしてある日突然嫁がハンドバックに包丁を入れて家を出ようとしたら声を掛けてはいけない事を学んだ男)
とロイヤルアスコット2のバクレツサクラジマに良く張り、良く負けた。
レッドゾーンが出たらひとまず買らしい。
彼とよくスロットを打ちに行き、獣王でも負け、大花火でも負け。
いいところなく負け続けた。
今思えば、この時ちゃんと学習や勝ちに対して執着を持ち、行動を起こしていれば、もっと早くギャンブルに勝てたかもしれない。
そしてバイト先を塾講師から神奈川県で一番売り上げのあるファミリーマートに変更。
当時で時給が1400円を超えていたのはここだけだったが、人がすぐに解雇される厳しい店舗だった。
ここのおかげでCS(カスタマーサービス)について学んだと思っている。
同じコンビニでも年商3億を超えることもあり、サービスによって結果が変わる事を学んだ。
ここでその後12年付き合う彼女と出会う。
結局、2017年6月28日の記事で記載したJPモルガンの美女への返信ではないが、後年、長期保有を決断をしないとあっさりと去っていくことを知る。
自分の主観による立場と、相手の視点による立場、両方を加味しないと組織は円滑には回らないことを再認識させられた。
そんな中、何故か急に富士山に登りたくなり、0合目から二日かけて見事登頂するも高山病で死にかける。
嘔吐するようだとかなり危険らしい。
そしてやたら喉が渇いて、水をひたすら飲んでいた。
ただ、自分の足で日本一の山を登頂したいという思いがあった。
購入した杖に山小屋ごとに焼印を押してもらい、未だに深い意味もなく自宅に保管している。
大学のサークルの後期になると、競馬サークルの幹事長だったこともあり他校の競馬サークルの方とも交流ができる。
そのため、2000年5月21日他校の紹介でスカパーのおそらくCx Sports Sunday という番組に出演。さまぁーず三村氏とこっそり共演。
そしてシルクプリマドンナが勝ったオークスでサニーサイドアップを本命にし、大敗。
罰ゲームとして青汁を飲まされたが、あの罰ゲームは手加減無しで本当に不味い。
サークルが競馬サークルだけになかなかの曲者が多く、携帯投げアーティストと呼んでいた大学の後輩は、まだ回線が生きている携帯を北海道の宗谷岬と襟裳岬から美しい弧を描きながら放り投げ、毎年一度すべての人間関係をリセットしていた。
今も芸術活動を続けているのかもう20年近く音信不通である。
また、当時パラ政(パラダイス政治経済)と呼ばれていた学部の後輩は、人が多すぎるという理由でテストの日にテスト会場を後にし、見事単位を落としていたが、本人は釈然としない様子でパラダイスなんだからテストを受けずして単位が取れると思っていたと語っている。
この頃調子に乗って、味も分からないのにウィスキーに手を出してしまい、後輩を一人病院送りにしてしまい、退学の危機を迎えそうになる。
生きていてくれて本当によかったと今も思う。
その帰りに電車にて私も泥酔し、財布を無くす。
駅を出ることができずに、駅員さんに頼み込んで後日払いにしてもらう。
その頃、将来的に車や家のローンを借りることを考慮すれば、奨学金を借りてまとまった現金を持っていることが強みとなるんじゃないかと気づき、当時のMAX3000Kの奨学金を借り受ける、
これは今でも正解だと思っているが、私が当時もう少し賢ければ、高校卒業のその瞬間に借りれるだけ借りたと思う。
そうすれば無利子で10000K借り受ける事ができ、それは無利子である以上無償でもらう事とたいして変わらない。
現在価値と将来価値、インフレという物を考えれば、無利子でお金を借りるってのは貰うのと変わらないと今なら確信している。
これは気づいた者だけに与えられるチャンスなんじゃないかと思われる。
基本的に日本は逆転を許さない社会なので、薄い正解を継続していかないとステイタスの逆転は起こりえない。
後年、ここで借りた決断は結果的には正解だったという事が起きる。
2002年、22歳にて無事大学卒業するも、4年間で勤勉さを損なわれた私は何も考えることができず、斜陽産業のブラック企業に入社するという新卒プラチナカードを最も切ってはいけないところで切る愚挙を犯す。
また就職活動中はバイトをしていなかったため、奨学金の3000Kの内1500Kをスロットで溶かす。
暴挙と言っても過言ではない、
そして、就職氷河期という事もあったが、学生生活という温めの露店温泉から斜陽のブラック企業という極寒の地の旅館までの距離で風邪を患い、入社3日目にして3年以内の退社を堅く誓う。
毎月1回土曜出勤あり、早朝出勤別途あり、毎朝7時出の0時帰宅の繰り返しでの手取り18万程度の生活は生きている事の意味を問わされる。2016年に問題となった電通のT大卒の女性社員もこんな感じだったのだろう。
何のために生きているのか?そう思うようになったら、心の底から環境を変えることをお勧めする。
学生時代に何も積み重ねて来なかった者に社会は厳しく、社会生活におけるコミュニケーションの基本も理解できておらず、仕事の実績もまるで出せず、ブラック企業における視線も日に日に厳しいものになり腸炎を患うようになる。
それまでまともに挫折を味わった事がなかったため、現実の己を知り衝撃を受けると共に、このままで終われるかと思うも、ブラック企業で見返しても努力がいずれにしても報われないと思い、そこでの立場を完全に捨てることを決意する。
毎日、ビジネス本・自己啓発本を3冊以上読み、東大卒と同じ確率である1万人に1人しか読んでいないと言われるビジネス誌「日経ビジネス」を読み始める。
東大に入る事は難しいが、日経ビジネスは誰でも読むことができる。
それで1万人に1人の付加価値を付けらえるのであればやらなきゃ駄目だと本気で思った。
そこで得た情報を取引先に話すことで、新規の仕事を取れるようになってはきた。
がそれと同時に日々のストレスでますます競馬とスロットにのめり込むようになる。
そして何も学ばなかった私は負け続けていた。
2005年1月、待望のブラック企業退社する。
この当時は25歳で25年間生きてきた中でこの会社を辞めた事が一番嬉しかった。
最後の方は読書の効果か新規で大手を取れたこともあり、見返したと思っているが、なんでお前なの?と質問された事で退社が正解だったと確信する。
基本的に他人は他者の事に興味はなく、自分の事しか興味がない事をこの事で知る。
また、変化してもそれに気づけるほどよく人を見ている人はあまりいない事も知る。
この頃から、自己啓発本を読み漁った。
今だから言うが、このブラック企業で巻き返しを図る気はまるでなく、多少新規取ったらあとは毎日3冊本を読んでいた。
自分に問題が起きて、解決ができないのは、問題が起きる理由と解決方法を知らないからだと閃いた。
じゃあ、どうすればそれらの回答を得られるか?
そう考えた時に。過去に読書によって救われた自分を思い出した。
大学受験も国語をまるで勉強しなくても大丈夫だったのは、小学生高学年からの読書量の賜物によると思っている。
最近では芦田愛菜嬢が読書家でありながら難関校を突破したことは記憶に新しい。
そう気づいた私は、人生の大先輩が私の代わりに失敗して、答えを記載してくれているのだから、読書をしなければ駄目だと確信した。
この頃から、金持ち父さんによる自分の持ち物に労働させる、自分の代わりを探すという発想
アンドリューカーネギーの他力を得るという発想・・・
ナポレオンヒルの結果を出す人の共通点・・・
斎藤一人氏のツイているという概念・・・
稲盛和夫 氏の仏様という当時は理解しづらかった概念
竹田和平氏の天とワクワクありがとうと言う概念
ウォーレンバフェット氏のバークシャーハサウェイの考え方
西田文郎氏のツキの考え方
7つの習慣
と自己啓発本を貪るように読んだ。
おかげでふと分かったことがある。
上記の方々の概念は一般的な普通の人には受け入れがたいが・・・・
受け入れがたいから自分は凡人なんじゃないかと?
結果を出している人間が考える共通の考え方は、それが望む姿であれば正しいのではないか?
そう思い、結果と行動を基軸にする考え方を学ぶ。
つまり、どれだけ理に適っているように見えようとも、結果が望ましい姿でなければそれは間違っているとソロモン王が神に願った「善悪のわきまえ方を教えてください」ともいえる真実に気づく。
行動と結果には嘘がなく、言葉には嘘がある。
正誤や善悪は結果と行動で判断すればいい。
この頃それを学んだ。
2005年3月、楽天ブログを開始する。ここからスロットで1年を暮らす。
この当時はスロットも楽天ブログも全盛で知識だけで勝てたが、今は懐かしい。
私のスロット生活は2005年3月から2006年の3月のぴったり1年だった。
興味がある方は、引っ越し前のブログを読んでいただければと思う。
この時、借りた奨学金の残りでバークシャーハサウェイのウォーレンバフェット氏に丸乗りしようと中国株ペトロチャイナにアイムオールインする。
バフェット氏は私より優秀な事は結果でも証明し続けているので、その優秀な人物が下した決断を私も信じようと思い、丸乗り。
バフェット氏のおかげで10000K近くまで増やさせてもらった。その後リーマンショックでかなり減ったけれども・・・
あの時奨学金を半分溶かさなければ、高卒時点で10000K借りていれば・・・・
人生変わっていたかもしれない。
またバリュー投資を基本戦術とすることを学び、今でも売っているか分からないが謎のトレーダーしんのバリュー投資法という本にかなり勉強させられた。
これも名著で今でも十分通じると思う。
これで貸借対照表やキャッシュフロー計算書の意味を理解した。
毎日閉店前にゲーム数をメモり、翌日ノーボーナスのハマリ台を打ち、宵越し天井狙いが基本戦略・・・・
めんそーれや主役は銭形、吉宗で大分いい思いをさせてもらった。
そして大学の後輩の仕事帰りに安居酒屋で毎晩焼酎を1本半空けて、昼過ぎまで泥のように眠り、昼過ぎにスロットを打ちに行く生活を繰り返していた。
この頃は時間があったので裁判所に気まぐれで傍聴に行ってみたり、競売物件を眺めたりしていた。
この頃から張らなければ何も人生変わらないと悟るようになる。
2006年3月、5号機になるとはいえ、まだスロットに活気があったし、景気がよさそうだったのでP業界のメーカーに入社。
初代番長と初代秘宝伝でもうスロットで食える時代ではないと悟ったこともあるが、今思えばまだまだいけるはずだった。
まさか規制RUSHでこんな斜陽産業になるとは思っていなかったが、一般的にイメージが悪いためか、他の業種に比べてライバルとなる相手が弱いこともあり、利益率も高いので間違っていたとは今でも思わない。
ここから競馬のレートが上がることになるが、いまだに張り続ける事ができている。
2007年、およそ10年前にディズニーランドで大敗した色白I川さんから10年ぶりの連絡が・・・
罠だと分かりながらも、会いに行き・・・
高額な壺を売られそうになる。
天使のようだった娘が気がつけば、時間の経過とともに他者は鴨葱鍋ビールかと寂しく思った記憶が残ってる。
もう結婚しており、旦那さんがフォークリフトの運転という高潔な仕事についていらっしゃるのだが、にもかかわらず新車を購入しては改造し売り払うを繰り返して借金まみれ・・・・
自分がどうにかしなきゃと思い、そういったネットワークによる壺販売に手を出してしまったのだろうが・・・
後日離婚し、それも辞めた話を聞いている・・・
そしてこの年、初めて楽天ブログによるオフ会を開催!!
うずまきNARUTOさんやHarukiさん、ぷほるすさん達と知り合うことになる。
2008年9月、表題の帯にもある宇宙一ツイているの項目でも記載したが、やたら回るパチンコでドハマリし続けていた時・・・・
自分から見る真実は何かと考えた時に、自分自身における真実は自分の認識だと言う事に気づき開眼。
自分の認識は変える事ができ、そしてそれは自分で事実の選択をすることができる。
それに気づいた瞬間、宇宙一ツイている漢になる事を決断し、宇宙一ツイているギャンブラーになる。
2008年10月、宇宙一ツイている漢になった直後、秋華賞にて史上最高配当の3連複を的中させる。
言霊の力の強さを確信し、決めれば現実がついてくることを学ぶ
2008年12月、競馬予想の大学の後輩を知る。
自分の予想と結果の違いに衝撃を受ける
宇宙一ツイている漢になって以来・・・
立て続けにツイているっ!
2009年
相応の読書量のおかげで、見える物より見えない物の方が価値が高い事を知る。
不動産などの権利もそうだが、特許等もそう。
これもかなりおススメの西田文郎氏の本に、成功者ほど目に見えない物を信じ、そうじゃない人ほど目に見えない物を信じないとあった。
その通りかもしれない、結果的には目に見える物より目に見えない物の方が価値が高い事が多いのだから。
その延長線上で、時間のみが唯一平等でもたざる者に与えられる最大の財産だと知る。
自分の時間に価値をつけるべきだとこの頃から思わされる。
1時間短縮できるならどのくらいの費用を払ってもいいの基準をひとまず、1時間2000円の価格設定にした。
だから私は時間を短縮するためなら迷わずタクシーを利用する事にした。
2010年3月28日
後輩を知ってから推していた一貫性の馬フラムドールから250万当てる。
ずっと一貫性を持っていれば、この馬惨敗するときは酷かったけれども、何回も百万馬券の立役者になっている。
2010年3月28日 阪神11R君子蘭賞 フラムドールから
フラムドールが頭なら350万だったけれども・・・・
阪神の芝は荒れるとこの頃から思う。
のちに2012年の阪神メインの米子ステークスのフラガラッハで1000万馬券取りこぼすまでは・・・・
2011年5月 今までの競馬人生で最高倍率を的中させる。
2011年5月21日 東京12R 2着ホクトスワンで200万馬券的中
この頃から何気に重要なんだけれどもダートの1000万下はやたら荒れる気がし始めてきた。
流石宇宙一ツイている!!
2012年
ようやく年間通して安定して勝てる方法を知る
2013年
回収率はそれほどでもないがどうにか勝ち越す
2014年
信じがたい偏りによって目も覚めるほど、現実を疑うほど負ける。
死ぬかと思った年だった。
2015年
宇宙一ツイているはずなのに、結果が伴わない事に疑問を感じ始める。
結果と行動がすべてなのだから、何かが違うと。
その結果、競馬の勝ち方を知るため、どの年を輪切りにしても勝てる買い方の統計を取り始める。
時間に価値があるのだから、単純作業は自分で行っては駄目だと、SOHOの事業者に登録。
依頼とお金をかけて統計を取った。
その結果、勝つための条件を知る。
また、少年老い易くではないが、人間穢れやすくと気づき・・・
負の情報の一切をシャットダウンすることを学ぶ。
平山夢明氏等のホラー小説や実話系怪談が好きだったが・・・・
負の要素しかないと判断し、すべてを手放す。
ありとあらゆる負から距離を置くべきだと認識する。
2017年1月、新しい事を始めようとブログ引っ越しを決意。
毎日更新するのは変わらないので、少しでもプラスになればモチベーションが上がるのでグーグルアドセンスをつけてみようと思ったのと、自由なスタイルにしたかった事、生殺与奪を楽天に握られていることに不満があったためだ。
また、ここでこっそり告白するが、当時某有名掲示板で叩かれていたこともあるが、私のブログにやってくるアラシを一人見せしめに血祭りにあげてやろうと思ったこともその理由のひとつ。
名誉棄損系の弁護士事務所にメールを出しまくり、どのくらいの費用で個人の特定ができるかを調べていたこともあった。
もう少し、小さい弁護士を探したり、友人のツテを探したり、仕事がなさそうな弁護士を探したりすれば十分実現できたと思うが、コメントを承認制にしてからアラシが来ないのでまだ実施できていないし、半年もたったので今はそれほど熱意はない。
ただ、IPの特定とIPからの個人特定は別物で、自己管理のサーバーじゃないとIPの特定の障壁が大きいと弁護士事務所からメールを貰った。
今の私のようにワードプレスならIPの特定まではすぐに可能。
こうすることで費用が半分以下に抑えられるのと、本当に「やる」ために障害を取り除こうと引っ越しをしたのは実は秘密だった。
まあ、なんでもやってみると決めているので、そこで得た知識は何かの役に立つし、人間はやった行動のエピソードに面白味が詰まっていると思うので、なんでもやってみてエピソードを作ろうと思った事も事実だ。
2017年3月、相変わらず何でもやってみるべきだと思い、youtubeデビュー。
セルフブランディングしようと決意。
またどうせ派手な馬券を買う事は変わりはないのでついでに応援してくれる読者を増やそうと思ったのもある。
ファンも増えてくると日々の前進感もあり楽しくなってくる。
また、人の幸福は前進している感覚、前に進んでいるという感覚だと思うので、時間の経過とともに読者が増えていくのはかなりメンタルにいい。
2017年6月
再度ギャンブル界のナポレオンヒルを目指すことを決意
ギャンブルの勝ち方を体系化すれば、私自身自ずと圧勝しているはず。
ギャンブルの何が一番難しいかと言えば、社会生活を円滑に回すためのすべてを求められることだ。
感情に支配されない強い気持ち、負けないための意志と行動、資金マネジメント、襲い掛かってくるネガティブな感情をコントロールする事、仕方がない事を許し受け入れる事、負けを学んで改善する事。
決して楽して勝てるようなものではない。
社会生活で成り上がるより、ギャンブルで勝つことの方が難しいのではないだろうか。
だからこそ、それができれば全部上手くいく能力があるのと一緒。
2017年9月
ヒキの強い人や結果を出している人が実は毎月お参りしていたり、お祓いしていると知る。
西田文郎氏の話ではないが、成功者ほど目に見えない物を信じると言う話と・・・
確かに自分を振り返ってみてもそういったことを全くしていない事に気づく。
自分から見て、結果を出しているツイている人がそれを実施しているのだからまずはやってみるべきだと、同じ神社にお参りに行き、お祓いを受けた。
また、同様に自宅のトイレ清掃を実施するようになる。
その直後3週で400万馬券が当たる。
詳細はyoutubeの動画
京セラ創業者の稲森氏もビジネス誌の紙面でやたら仏様を信仰していたのを思い出すとともに・・・
斎藤一人氏も神様の話をし、竹田和平氏も天とわくわくに感謝をしていた。
逆に、ヒキが弱そうな人は私同様、お参りなど継続して行っていない事を再認識する。
2017年11月、ライン@で公式ラインデビューする
物事は何でもやってみるべきで、そこで得た知識が何かと組み合わさるかもしれない。
かつて豊臣秀吉がありとあらゆる職種を経験したのは有名な話。
何をしても長続きしないと言われたが、逆ですべてを学んだのだ。
何もかも行うのもそれはそれで正しい。
2017年12月、ついでにinstagrmにデビュー
人の紹介でSEO対策に強い社長をご紹介いただき、今はTwitterよりinstagramが強いと聞いて早速デビュー。
やってみるものでやはり、流行している物は人の動きが活発。
すべてを連動させて、セルフブランディング向上を狙う。
会社の看板は失えばお終いだが、個人の看板は生きている限り永遠に続く。
自らの看板を磨きあげ、凡人は行動のみによって非凡になりうることの証明を行いたい。
密かに追記している。
2018年2月中国の貿易代理店を利用して中国輸入を開始。
中国仕入れ品をメルカリで出品してみている。
また、2018年4月こっそり会社に退職届を叩きつけた。
競馬のみで食っていく覚悟のほどを見せた。
というのは半分だけ本当で実際はサラリーマンと言うジョブは社外じゃなくて社内に営業をかけるのが本質なんだと知り、斜陽産業の業界と事業部のトップを見限りこっそり医療機器メーカーに転職。
7月からパチンコから医療と言う変化を体感することになる。
準備不足だったが、つくづくサラリーマンに向いていない事を痛感。
医療業界に進みながら独立を目指す
ちなみに2018年6月に初心者が回収率100%超える方法を公開