デールカーネギーの話と自己都合と正当性

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まあ、有名なホストローランドの愛読書ともいえるデールカーネギーの人を動かすという本に・・・

どんな悪人でも、自分を悪人と思っていないというフレーズが最初に出てくる。

これは真を突いているなと改めて思ったのだが・・・

どんな理不尽な事や身勝手な発想や行動も、その人にとっては正当性があることなんだよな・・・

そう考えてちょっと目が覚めた。

とんでもなく勝手な話だなと思う事が結構あるんだが・・・

その勝手な事を言っている人は自分を勝手だと認識できていないのだ。

だから、自己都合が前に出すぎて他人に負債を与えていても、それは自分の都合の部分の正当性ばかり目に行っているので、人に迷惑をかけているとかが認識できていないのだよな。

そうなると、迷惑かけられた人が、それを許している事でさえも、その人が自分の都合通りじゃないから当然という発想になる。

そうかと・・・

よくよく考えれば、その辺が人が大人になるってことなのかもしれないよな・・・

相手の状況まで考えられるというか・・・

私はかなり客観的だと思うんだが、結果が相手にどうなのかを視点に考えるのでたまに勝手な人と会うと言っている意味が理解しえない。

でもそれは、私はこの人客観的に見ておそろしく勝手だと感じていても、当人が自分が客観的に見ても勝手だとは認識できないから違和感と平行線が続くんだよな。

そうなった時に正しい答えはなんなのかなんだが・・・

それを指摘しても言い争いになるだけだし、私同様に結果に否定され続けなければ自分が間違っているかもしれない事に気づけないのではないかと思えてきたのだ。

そうなると言っても無駄なのか、ライトに言って気づくのを待つしかないのか。

ただ、私の中でそれに気づけたのが大きな学びかもしれない。

人間は自己都合でしか生きていないが、その自己都合で生きる上で様々な要素が絡み、自己都合を引っ込めるところや、出さなきゃいけないところなどのバランスがでてくるのだが、そのバランスを取る必要性が分かっていないということもあるのかもしれないよな。

相手の都合を考えず、自分の都合通りにならないと相手が悪いになる。

私も子供の頃はそうだった記憶があるが、とうの昔に忘れた感覚で、だから違和感があることがあるということに気が付かされた。

そうだったんだよ、誰もが理想や信念や形をある程度は持っているけれども・・・・

そこに相手の都合が加味されることでバランスを保っているんだが、まれに相手の都合の存在の認識が欠落している人の場合、何故と不思議に思うような事で批判されることがあるのだ。

そうかと、答えが見えてかなりすっきりした。

そういう事だったんだと。

ではどうすべきなのか。

相手の能力によるんだろうな。

また一つ人を見る目が養われたかもしれない・・・

そんなことをふと思わされた。

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