博奕は波である。流れである。 森巣 博

N島自己紹介
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博奕は波である。流れである。 森巣 博

作家、ギャンブラー

ギャンブル系の小説を多々記載しているらしい。

数学者だったり、確率教の信者には耐えがたい言葉だろう。

何を不合理なことを言っているんだ?と。

私も以前は確率教の敬虔な信者だったので、十分に分かる。

だが・・・

私は私の身に起きた事象をもってして、確率は宗教であり願望であると決めたのだ。

もし、確率は収束するのであれば・・・

宝くじ当たるような薄い確率が連続して私の身に起こり続けるはずがない。

チンチロで3連続1・2・3で負ける確率・・・

天文学的数字だが・・・

軽く2~3回こなしているし・・・・

2分の1のヒキ負け連続記録も、軽く繰り返し新聞紙を折りたたんで行き、月まで届く距離を超えているだろう。

モンテカルロのルーレットの赤連続も軽く超えている。

確率だから起こりうると言ってしまえばそれまでだが・・・

そもそも確率と言うのは・・・

無限回試行したらそうなるであろうという考え方である。

ところが、我々の時間は有限であり無限回試行できない。

つまり・・・

不可能を前提とした考え方なのだ。

試行回数が有限ならば・・・

偏って当たり前。

逆に言えば、偏らない方がおかしい。

つまり、確率は無限回試行できない以上、収束しないものなんだ。

だからこそ。確率が高い方が有利なように見えるが、前提は偏る。

そして麻雀の桜井章一氏や阿佐田哲也氏、そしてこの森巣氏・・・・

こういった名を馳せた人物たちがツキのやり取りだったり、天運と地運だったり、波だの流れだとおっしゃっているわけだ。

結果を出したから名が出ているのであって、私は机上の論よりも実績を信じる。

結果を出した者の言うことはどれだけ荒唐無稽だろうと正しい。

史記の話を思い出さないだろうか?

史記の趙の話。

そう趙括だ。

趙括は名将といわれた趙奢の子で、幼少時より兵学に通じており、時には名将といわれた父を論破したこともあった。

しかし、趙奢は「あれの知っているのは机上の兵法である。戦争は生死のかかったものであるのに、気軽に言葉にしている。人の生命を軽んじる趙括を将軍にすれば必ず負けるだろう」と言葉を遺した。

長平の戦いにおいては、当初名将・廉頗の指揮でよく防戦していた。秦軍は遠征であるため焦り、戦局打開に向けて秦の宰相・范雎が一計を案じ、「秦軍は老人の廉頗よりも、兵法の名家たる趙括が指揮を執ることを恐れている」という流言を広めた。

趙の孝成王はこれを信じて廉頗から趙括へ総大将を交代させてしまう。

趙括の母は、夫である趙奢の遺言をもとに、趙括を将軍にしないようにと王に直訴したが容れられなかった。

趙括の母は代わりにどんな結果でも一族などに罪を及ばせないよう願い、孝成王もこれは認めた。

机上の兵法のみを理解していた趙括は、廉頗の戦法を全て兵法書通りに変更して秦軍に挑んだが、歴戦の勇将である白起将軍の囮作戦にかかり、軍を分裂させられ、糧道を断たれて大敗、趙軍40万が飢えに瀕した。状況を打破すべく趙括は自ら討って出るが、大量の矢を射られて戦死した。

と・・・

実際の戦を知らぬ理論だけは知っている人間の結果となにか重なる部分がある。

さて、博打は確率だろうか流れだろうか?

まあ正直信じる方を選択すればよいとは思うが、確率は偏る。

それだけは言える。

何しろ物理的に無限回試行できないのだから。

それと同時に・・・・

何十年もの間生き残ったという結果を出した人間の言葉なのだ・・・・

社長もそうだけれども・・・・

社長自体は私は誰でもできると思っている・・・

問題は社長を継続することが難しいのだ・・・・・

3か月の社長なのか10年の社長なのか・・・・

青色吐息だろうがなんだろうが・・・

社長が長く継続できていると実績を、結果を私は評価する・・・・

だからきっとこれも正しい・・・

認めない人はいるだろうけれども・・・

逆にどんな実績があるのだろうか・・・・?

実績がないのだとしたら・・・・

どちらが正しいだろうか・・・・?

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